この記事ではぼく自身が不登校になったきっかけと、社会復帰できた方法をご紹介します。
不登校の親御さんでお子さんが当てはまるケースもあるかもしれないので、あくまで1つの事例として参考にしていただければ!と!思います!
不登校のきっかけは中1の冬のいじめでした
ぼくは元々それなりに明るい性格で、学校でいわゆるスクールカーストの上のほうにいるような存在でした。
中学1年生の頃には、中学デビューをして、非常にウェイウェイとしていたんですが、きっとそれが鼻につかなかったんでしょう、学年でもかなり権力が強い男子からいじめの対象になってしまったんですね。
いじめられた内容としては正直そこまで大したものではありませんでした。
- 上履きが朝にない
- 画鋲がたまに入っている
- 少し暴力をふられる
- 暴言を会うたびにはかれる
- 休み時間に毎回いじめられる(彼らからすると娯楽のようなもの)
ドラマでよくあるような、トイレで水をかけられて本当に自殺に追い込まれるようなことは幸いなかったです。
でもぼくとしてはあの時本当につらかったのが、周りの人からの視線でした。
今まで友達にたくさん囲まれて、勉強は全くできないしする気もなかったけれど、サッカーと友達とみんなでバカみたく騒いでバカみたいなことでバカみたく盛り上がるのが楽しかったのが一気に変わってしまったことです。
- 周りの人からいじめられてると思われるのが嫌だ
- 今までの友達からも避けられるのがつらい
といった部分が非常につらかった記憶があります。
そして、そのいじめっ子層は学年でもトップの権力を持っていて体格もすごく良かったので、やり返すこともできない。。。(いじめっ子がよくケンカして誰々を病院おくりにしたなどの事例があって怖すぎて無理だった)
「いつか終わるだろう・・・」と思って中1の冬休みをあけて中2の春に学校へ行った時に絶望したのが、
「もっといじめてやるからな」
といじめっ子オヤビン3人くらいから、面と向かって言われたことでした。
この時に「あ、つんだ・・・」と悟りました。
学校から逃げるように早退と欠席をしだす
とにかく学校にいる時間、特に休み時間なんかが怖くて、学校から逃げるように早退と欠席を頻繁にするようになっていきました。
- 歯医者に行く
- 体調が悪い
なんかを生徒手帳に自分で書いて、先生に出して、昼にトボトボと帰ってました。
帰宅するときもいじめっ子と同じルートが怖かったから、わざわざ遠回りして帰宅していたりしました。
確かこの時期が中2の春だったんですが、家の家庭環境も父と母の中は劣悪で、家にいてもすごく苦しかった板挟み状態でした。
よく家庭内でガラスのコップが割れてました。
ゲームに逃げる
早退や欠席を頻繁にするようになってから、1か月もたたずに不登校になりました。
正確には、「もう学校なんて怖くて行きたくない」と思って行くことができなくなりました。
そのうち終わると思っていたいじめも、一向に終わる気配がなかったし、もういじめも周りの目線も怖すぎました。
そして小学生の頃にやっていたオンラインゲームにぼくはハマり始めて、ネトゲ廃人へとなります。
ゲームな日々
オンラインゲームは想像以上に楽しくて、昼の14時に起きて母親がパートの前においていってくれたビスケットを食べ、ゲームをし、朝方の6時にポテチを食べて寝る、という生活を繰り返していました。
髪の毛は切りにいかないので、1本上にちょんまげを作れるようなスタイルにできるほど長く、肌の色は青白く、体重も激増していました。
ただ、ぼくはゲームにある意味で当時救われていて、オンライン上で友達がいるから寂しくありませんでしたし、現実はかなりヤバイけどすごく楽しかったんです。
中3の夏頃
さすがにこの時期になってくると進路を決めないといけなくなります。
親が頻繁に学校の先生に相談に行っていて、定時制高校なら内申点なしで受けれるので、都立の定時制高校を受験することになりました。
中3になってからの先生は体育の先生で、いわゆる学校のドンでした。
でも、とんでもなく親身になってくれて、週に2日?くらい家まで自転車で来て会いに来てくれましたし、ぼくに負担をかけずに少しでも外に出そうと学校へ行く予定を組んでくれたりしました。
当時は
「めんどくさいなぁ。。。」
「だるいなぁ。。。」
「ゲームしたいなぁ。。。」
といった感じに思っていたのですが、今になって振り返ってみると、とんでもない人だなと本当に感謝しかしていません。
そしてカウンセラーさんにも恵まれ(母親が上手に関係を築いていた)、ぼくは周りの力を借りまくり定時制高校を受験するまでサポートしてもらっていました。
定時制高校受験
内申点関係なしに、作文と面接だったので学力は関係ありませんでした。
ただもちろん、ぼくはかれこれ2年間ほどペンを持っていませんので、まず字がヒョロヒョロです。漢字も書けません。手が震えます。
でもなんとかよく分からない文章を書いて、ノリで面接をこなして、無事、
落ちました
2次試験
定時制高校に落ちたぼくは完全に戦意喪失していました。
もう高校なんてどうでもいいし、人生なんてもうどうでもいいと完全に現実逃避をしていました。
でもいつまでも現実逃避をしていても、待っているのは中学卒業後のニート生活です。
当時のぼくはすごく幼なかったので、少しの壁や小さな挫折でも大ダメージで、もう受験をしたくないと親に言っていました。
2次試験の願書出願日の前日、母親からキレられて、それでもぼくは完全に自暴自棄になっていました。
ですが、ここで父親の登場です。
ぼくからすると、父親はコワイ存在でしたし、言うことを聞かないといけないと無意識のうちで思っていました。
「適当でいいから書こう!ほら!」と、父親に言われ、渋々書くことにしました。
文面は全て父親やカウンセラーさんが用意してくれたもので、ぼくはただ手を動かすだけでした。
2次試験で将来について受け売りを書いてみた
1次試験ではいかに高校のシステムが有能かをただただ機械的にヒョロヒョロのひらがなで書いていただけだったんですが、カウンセラーさん?父親?から、「大学に行きたい」と書けとアドバイスをもらい、その通りに書きました。
作文→この高校に入って大学に行きたいです。
面接→学力がないけど、ここで勉強して大学に行きたいです。
そんなことを気持ちもなく書きまくったところ、2次試験のとんでもない倍率の高さのなか、合格することができました。
正直、高校なんてどうでもよくて、ゲームがしたかったんですが、それでも何かに受かるというのは当時すごく嬉しかったです。
そして、不登校じゃなくったという自己肯定感も少しだけありました。
社会復帰できた方法は定時制高校だった
定時制高校に通うとなると、嫌でも外に行かないといけません。
それに学校の単位を落としまくってしまうというのは、やっぱり当時のゲーム中毒者のぼくとしても、良い気持ちにはならないと気づいていました。
定時制高校に入ってからの1か月はすごく学校に行っていました。
「何か変わるかもしれない!」
「楽しいことがあるかもしれない!」
なんて胸を躍らさせていました。
でも結果的に、やっぱり思い描いていたものとは違く、5月くらいからは学校に月に4日ほどしか行かなくなりました。
先生に連れ戻される
確かあれは、、、高1の秋頃でした。
「もう学校とかだりーなぁ。。。」
「帰ってゲームしてーわ。」
なんて思い、4単位(わりと重い授業、落とすと超しんどい)の授業をさぼって残り欠席回数0回の時に帰ろうとしていました。
でもそこで、当時高1の頃の担任がぼくの腕をつかんで教室に連れ戻すという強力なプレイをしてきて、ぼくは学校に戻されました。
当時、もうどの授業も欠席回数が0回とかで、「もうどーにでもなればいいやー学校とかだりーーー」とついつい中長期的な目線よりも短期的な目線で授業を落とそうとまさにしていたところでした。
そこで気付きました。
「やっぱり授業落とすのはなんか微妙だし、もうちょい行くか」と。
今になって思うのは、大人が、特に家族以外の大人が、「そっちはちげえ!こっちだ!」とある程度の道しるべを無理やりにでも示してあげることは重要なのかなとも思えます。
子供はやはり精神的に、短期的に楽なほうへ逃げてしまいがちだからです。
高2になってゲームに飽きた
中2から始めたので、かれこれ3年間ほど1つのオンラインゲームをしていたんですが、さすがにその頃から飽きてきました。
正確には、そのゲーム内で強くなりたかったためにたくさんお仕事てきなことをしないといけなかったので、かなり稀だと思いますが、もうゲームをすることに疲れてしまいました。
ゲームに飽きてからは、毎日学校以外は全ての時間をゲームに使っていたのが、
今日はいいや、、、
今日も、、、面倒だしいいや、、、
もう装備うっぱらって終わろう、、、
と、徐々にゲームからフェードアウト。
オンラインゲームを辞めることを、引退なんて単語で表現されていたんですが、引退することになりました。
中2から始めたオンラインゲーム、ネット上でいろんな人と関わって、目的のためにプレイをする日々はなんだかんだ言ってもぼくに何かを気付かせてくれたなぁ~なんて思いました。
ゲームを辞めてからは、全然会話をしなかった母親とリビングで話すようになり、徐々に本当の意味で社会復帰ができてきた気がします。
高2の冬から受験勉強をしてみることにした
受験勉強の話に関しては違うサイトでも書いているので省きますが、現実的な劣等感もあって、大学受験をしてみることにしました。
最初は自分の努力が全然実らなかったのですけど、それでも浪人を1年自宅でして、試行錯誤して、早稲田大学に入ることができました。
不登校のきっかけから社会復帰までの総括
いくつか自分自身、不登校になって社会復帰するまでに思ったことがあったので、不登校のお子さんを持つ親御さんの役に立てばと思い書いてみます。
周りの環境(親・先生)がいなかったら無理でした
まずやっぱり、今気づいたのは、ぼくは周りの人にとんでもなく支えられていたということです。
- 中学の頃の先生
- 中学の頃のカウンセラーさん
- 高校に入ってからの先生
- 両親
学校に行くことが全てではありませんし、それが確実な正解とも言えません。
まずなぜ学校へ行くのか?という問いなんですが、いろんな人と関わって他者と関わる中で社会を知り、高校卒業資格、もっと言うと大卒資格や学歴などを手に入れて安定的な生活をするためだと思います。
ぼくはこれらの一連の活動が本当に正しいのかは、正直分かりません。
中卒で働いて、厳しい社会の現実を知って、最初は貧しい暮らしになるかもしれませんし、その後も貧しいかもしれません。
それもまた人生だと思います。
ただ、もし当時中3のぼくに親が「しらん。好きにしろ!」と言われていたら、高校には行きませんでした。
正確に言うと、「学校へ行かない」という選択をするのではなくて、短期的に楽なほうへと流されていたのだと思います。
授業をさぼって単位落ちるけど帰ろうとしていた時も、先生が引き留めてくれなかったら、短期的に楽なほうへと行っていました。
現実的に、年長者のほうが生きている年数が長いので、「その道はデメリットが強すぎる!」ということを伝えられる存在なのだと思います。
確かにキャリアや将来の生活という面では良いのだと思うんですが、それが本当に人生という広い目で見たときに良いのか悪いのかはぼくも分かりません。
ただ、少し先回りをして、本当に危険なゾーンを避けさせてあげることはできるのだと思いますし、ぼくは言い方は少し悪いですが、『先回り』をされて当時は不快でしたが、今は不快とは思いませんし、思えません。
環境を変える重要性
よく自己啓発本でも語られることなのですが、人が変わるには3つほどしかないと言われています。
- 意識を変える
- 時間の使い方を変える
- 環境を変える
という3つです。
ぼくも思うのが、3つ目の『環境を変える』というのは、確実性が高いなと思いますし、ぼく自身も定時制高校に入ることでやはり変わるキッカケにはなりました。
正確には、変わるキッカケになったのではなくて、変わらないといけないキッカケになりました。
親御さんが子供を崖から落とせみたいなことがたまに語られますが、不登校のお子さんの場合は、適切な場所に落としてあげるのが重要なのかなとも思います。
例えば、ぼくがいじめられていた時に、両親が「いじめられてるなんて言ってんじゃーねよ!甘えんな!」と学校に戻されていたら、精神的にもすごく追い込まれていたので苦しいというよりかは、かなり良くないことになっていたのかなと推測できます。
でも、環境を変えてまたやり直す、ぼくであれば定時制高校に入った場合は、今までのしがらみもなかったので、そこからは自分次第、お子さん次第だと思えます。
そして、いつまでも家で甘やかすという表現は微妙ですが、面倒を見てあげすぎると、少し先の未来でお子さんにとって良い結果にならないことが多いのかなと思います。
人は変わるキッカケが強くないと、やはり変わりにくい生き物だからです。
まとめ
- 不登校のきっかけはいじめ
- 社会復帰できたきっかけは定時制高校への入学
という2行の記事でした。
不登校でも大丈夫!なんて無責任なことを書くつもりはありません。
でも、なんだかんだ思うのは、親御さんとお子さんの関係が良好に保てていれば、キッカケさえあればお子さんは社会的に自立していけるのではないかなとぼくは思います。
もちろんその過程のなかでつらい現実や厳しい環境、不登校であったことのデメリットをお子さんは感じると思いますが、それもまた人生の1つの糧となるのではないでしょうか。